壁抜け

壁の鼻のアップ

壁抜け

 

今でも

どうしてあんな話題になったのか
ぼくは覚えていない
アレは突然君が切り出したのだ
「ねえ、壁を抜けられるのよ」
笑いながら
あるいは少し自嘲ぎみに
君は言い放った
ぼくはその時
ビスケットを頬張ってたように思う
君は立ち上がり
キッチンの仕切りの向こうに
姿を隠した
「よく見てて」
そう叫ぶ声を聞いた
悪戯の前みたいだった
ぼくはその声で
なんだか背筋がゾッとしたんだ

 

はじめに
ぽつんとシミのような物が壁に浮き出て
一部分が小さく盛り上がった
鼻だった
続いて君の頬が
胸が
それから指先が姿を現し
君は目を閉じ
首を突き出すような格好で
壁からにじみ出てきた
「おみごと」
と手を叩かねばいけない所だったが
ぼくは開いた口がふさがらなかった

 

最後に

踵と髪の毛が引き摺られるように出て
君の芸は終わりになった
通り抜けた後の壁には
きみの影みたいのものが残っていた
君の髪はほこりだらけで
眉毛も白かった
一大イベントをなしとげた君は
なぜだか元気を無くしていた
唇が青く
体が震えていた

 

紅茶を飲ませたように思う
でも震えは止まらなかった
いつまでも君は
ガタガタと震え続けた

毛布を掛けてもずり落ちてしまう
それほど震えはひどがった
大変なことになったぞ

とぼくは思った
君の肩を触るのも恐かった
ぼくはとにかく
逃げ出したかった
どこか遠い
平穏な世界へ逃げて行きたかった
いったい
何のせいでこんなことになったのか
何が現実で何が嘘なのか
判らなかった

 

濡れた半紙を
乗せてくれと君が言うから
ぼくそれを君の顔に被せた
君は荒い息をつき
拳を握りしめた
肩が上下して
体じゅうの筋肉が震えていた
あの時ぼくは
君が少し大きくなるのを見たんだ
ぼくの見ている前で
確かに君は成長した
ぼくより3センチも背が高くなったんだ

 

あの日で
ぼくと君との糸は切れた
ぼくたちはもう会うこともない
道で擦れ違っても
ただ挨拶を交わすだけだ
唇に枠をはめ
目に銀紙を貼り
唾液の多いお世辞を
パフパフ飛ばし合うのみだ

 

情けないことに
ぼくは今でも
どうしてあんな話題になったのか
思い出せずにいるんだ

リビングの壁に鼻

2 COMMENTS

桜田丸彦

イナザギとイザナミ。オルフェウスとエウリュディケ。オルフェとユリディス。機を織る
鶴。遮るものに逆らうと、そこで死が訪れたり繋がりが切れたり……。つまり、「唇に枠をはめ、目に銀紙を貼る」仕儀となりかねない。
でも、反論もあり。
アマテラスは岩室から出てきて、イエスは石で閉ざされた墓から復活した。

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