山森サトコの修行の日々

これは、文章の勉強会で出た「銀座」「サラリーマン」「ハンカチ」というお題の三題話として書いたものです。

山森サトコの修行の日々

 
 山森サトコは三年前に女学校を卒業し、今はハンカチ工場に勤めている。彼女は他の仕事をしたことがない……。
 
 もちろんサトコも、世の中に色々な仕事が存在しているのは知っている。例えば両親は動物を飼って生計をたてているのだ。しかしサトコは、両親が飼っているその動物の名前については、いまだに知らない。
 小さい頃、サトコは庭のはずれの畜舎を見に行って、そこに全身毛が生えた巨大な動物がいることに気がついた。動物は背中に瘤があり、口の上下に二本づつの巨大な牙があり、ひづめは二つに割れていた。そしてその動物は、なんだかものすごく太い鉄の鎖につながれていて、口の中で絶えずブツブツ何かつぶやいていた。
「歌を歌っているのかな」幼いサトコはそう思った。
 
 彼女はその件を、その日の夕食の話題にしようと思った。山森家の夕食はパンが多い。家族で丸いお膳の周りに集まると、たいていの場合、母親がそのお膳の外周とほぼ同じ大きさの巨大な輪になったパンを置く。互いに軽く会釈を交わした後、家族で息を合わせてそのパンを持ち上げ、それぞれ目の前をひと口かじっては時計回りに少し回す。静かにそれを繰り返すのである。
 そんな食事のさなかに、サトコはその日、畜舎で見た動物の話をきりだした。すると、彼女の父親は何の感情も読み取れない銅像のような目でしばらく彼女の顔を見据えた後「シーッ」と唇に指を立てた。母親は、その父を横目で見つつ無言でパンを食べ続けている。
 サトコはこの時、きっと何か子供が触れてはいけない話題に自分が触れてしまったのだと思った。それ以来、その動物の事も父親の仕事の事も、一切たずねないし普段も考えないようにして過ごしていた。
 
 さて、サトコが勤めている工場で作られているのは木綿や絹ではない、毛糸で編んだハンカチだ。そこでは毎日、大量のハンカチが編まれている。ハンカチ製造の現場は、工場敷地内の空き地だ。ハンカチは、見上げるほど高く積み上げられた座布団の上に座った専務と呼ばれる女性、それからさらに高く積み上げられた座布団の上に座った社長と呼ばれる男性、そして、それらよりやや低く積まれた座布団に座った工場長と呼ばれる男性、これら三人の手によって編まれてゆく。
 三人は、上空から見れば社長を頂点とした二等辺三角形になるような位置に向かい合って座し、それぞれが長い編み棒を手にして巨大なハンカチを編んでゆく。サトコの役割は専務の座布団の塔を押さえることだ。座布団の塔は不安定なので、編み物をする体の動きで、すぐ倒れそうになる。社長、専務、工場長、それぞれの塔におのおの一人づつの工員がつき、一日じゅうそれを支え続ける。
 ところで、それぞれの座布団はまわたを布に詰めた高級品らしいのだが、社長の座布団の表面には金の糸が織り込まれている。専務の座布団には銀の糸、工場長の座布団には銅の糸が織り込まれているらしい。工員たちはこれらの座布団を、それぞれ「金座」「銀座」「銅座」と呼んでいた。
 サトコは専務の「銀座」を押さえながら、時々こんなことを考える。自分は一生この仕事を続けてゆくのだろうか? 仕事って、何のためにするのだろう? そしてサトコは、自分の将来に思いをはせる。
 
 サトコの将来の夢は普通の奥さんになることだ。いつか、サラリーマンの奥さんになりたいと思っている。そのくせ、サトコは現実のサラリーマンというものを見たことがない。まわりの男たちは同じ工場で働く工員たちや、得体の知れない動物を飼っている父親や、前後の区別の無い不思議な魚を取ることをなりわいとしている漁師の叔父さん、などだ。サトコが会ったことの無い遠い親戚の若い男性が、どうやら外国でサラリーマンをしているらしいという噂は聞いたことがある。
 
 サトコの思うサラリーマンの仕事は、こんな感じだ。
 とにかく高いビルの中に大勢の人が集まっている。ビルの中央は吹き抜けで天井が高く、一階から見上げると天井の模様が霞んで見えるほどだ。ビルの中ではみな忙しそうに右往左往していて、それぞれが、自分の背丈の何倍もあるような書類の束をてのひらの上に乗せている。そんなだから、人と人とがぶつかった時には書類があたりに散らばってたいへんなことになる。
 サトコが思う未来の夫はやさしいサラリーマンだ。彼は、そんな事が起こったとき自分の持っていた書類をそっと横に置き、床に散らばった書類を目にも止まらぬスピードで回収し、持ち主だった人のてのひらの上に次々と積んでゆくのだ。そんなふうにして毎日が過ぎてゆく。
 
「コラッ、ちゃんと押さえんかい」
 専務の叱責が飛んだ。サトコは夢想から覚め、慌てて「銀座」を押さえなおした。不安定な座布団の揺れは止まり、専務はまたハンカチ編みに集中し始める。サトコは座布団の塔が揺れないよう両手で必死に押さえ込みつつ、ふたたび将来の結婚生活を想像した。
 
 サトコがサラリーマンの夫の帰りを待ちながら夕飯のしたくをしている。そこに夫から電話がかかってくる。夫はこんなことを言う……。
「サトコ、今夜は遅くなるよ」
「まあ、どうしてですの?」
「新しく隣町にできた支店が溶けたんだ」
「まあ、支店って溶けるんですの?」
「昨今の暑さは半端じゃないのさ。だから今夜はだいぶかかる。もしかすると帰れないかも」
「悲しいわ」
「僕だってつらいさ。ひょっとしたら何日か泊り込みかもしれない。ことによると、何ヶ月も帰れないことだってある」
「あんまりだわ。あんまりだわ」
「僕も悲しいよ。サトコ。でもどうか泣かないでおくれ」
 
 周囲の工員たちから「銀座が倒れる。銀座が倒れるぞ」という声がした。サトコは正気に返り、全身の力を込めて「銀座」を支え直した。大きく傾いていた座布団の塔は危ういところで倒壊をまぬがれ、体勢を立て直した。
 サトコは全身にびっしょりと汗をかき、荒い息をつきながら専務を見上げる。専務も恐怖に引きつった顔で息を荒げ、額に汗をかいている。やがて、
「サトコ、任務の大切さを忘れまいぞ」
 専務は意外に静かな声で、サトコにそうさとした。
「は、はい、わかりました……」
 こんなふうにして、サトコの修行の日々が過ぎてゆくのだった。
 

未来の夫と話す山森サトコ

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