暑い日
誰でもこんな経験があると思う。
たとえば夏の暑い日に、どうしても寝られなくて、何度も何度も寝返りを打ち、頭の角度を変え、足を引き寄せ、また戻す。もういちど反対に寝返りを打つ。
布団が汗で湿っていて気持ちが悪い。遠くで、風の吹く音がする。かすかな音だ……。
意識して、ゆっくりと呼吸してみる。
ゆっくり吸って、ゆっくり、と吐く。
駄目だ。やっぱり寝られない。
ふとんをガバと跳ね除けて起き上がる。体じゅう汗びっしょりだ。
ベッドに上半身だけ起きて周りを見渡す。あなたは裸だ。すると、ベッドの周りにビッシリと、薄焼きせんべいが敷き詰められている。
薄焼きせんべいだ。塩味の。やや色の薄い。アレだ。
誰でもこんな経験はあるだろう。そして、そんな時あなたなら、続いて何をするだろうか? そう、ベッドから下りるのだ。
あなたはもちろん裸足だ。だから薄焼きせんべいが足に痛い。あなたは「痛つッ」とか言いながら一歩目を踏み出す。
そして二歩目だ。ますます痛い。
あなたの足は湿っているのだ。割れた薄焼きセンベイの破片がつくに違いない。そうだ、そうに違いない。そんな足で、あなたはどこまでも、どこまでも敷き詰められた薄焼きせんべいの上を歩くのだ。
ヨロヨロと。一足ごとに顔をしかめながら。
あなたは歩いてゆく。二歩、三歩、四歩……
そのたびに薄焼きせんべいはパリパリと割れ、あなたの足に刺さるはずだ。そして前方に、冷蔵庫が見えてくる。
壁一面の冷蔵庫だ。小さな冷蔵庫がたくさん積み重なり、壁一面が、冷蔵庫の扉だらけだ。ここはどこだ? 家電量販店か?
とか言いながら、あなたは冷蔵庫だらけの壁にたどり着くのだ。そのあいだも足は痛い。
そして、あなたは目の前の、小ぶりな一台の冷蔵庫の扉を開ける。スーッと冷気が顔にかかる。気持ちがいい。
でも、なんか変だ。
冷蔵庫の中に何かある。……人間の顔だ。
髪がぼうぼうで、色の黒いその顔は、どこかで見覚えがある。でも思い出せない顔だ。その人間は、きゅうくつな小ぶりの冷蔵庫の中で、あなたに顔を向けて横たわっている。体はうつぶせで手は体の横にピタリと付け、顔だけをこちらに向けている。
その顔はどうも……、どこかあなたに似ていなくもない。いやいや知らない顔だ。あきらかに知らない人だ。あなたとその人間はそう、見つめ合っている。
誰でもこんな経験はあるだろう。
そうだ。そうに違いない。
あなたはボートに乗っている。目の前にいるのは、やっと誘った彼女だ。あなたは湖で、彼女と貸しボートに乗っている。うららかな日だ。
彼女と、こんなに早く親密な時間を過ごせるとは思わなかった。まさに最高のひとときだ。
あたりには霧がたなびき、春の風も頬に心地良い。でも、気になることが一つある。彼女の顔に眉も目も鼻も無いことだ。でもさいわい口の表情があるから、彼女がいま笑ったのは判る。
それは判るが、それにしても彼女の顔は、口以外なにも無い。のっぺらぼうだ。
あなたはそのことに、たいへん居心地の悪いものを感じている。すべての条件は良い方向を指しているのだが、彼女がのっぺらぼうであることが、あなたの気持ちを暗くしている。そう、私はそんなあなたの気持ちがよく判る。
今これを書いていても、あなたへの同情が尽きないのだ。私はあなたの理解者だ。たぶんそのはずだ。私には何もできないが、理解することはできる……。
そうだ、誰にでも起こり得るそのことが、今まさにあなたに起こったのだ。あなたは大きなはりぼての玉の中にいて、坂道を下っている。はりぼての玉は竹を編んだものと、まわりに貼った紙でできている。運動会で転がすようなたぐいのものだ。
でも大きさはそれよりだいぶ大きいようだ。なにしろ、あなたが立ったまま入っているくらいだ。もしくはあなたが小さいのかもしれない……。
あなたはその玉の中で走っている。そうしないと玉といっしょにまわってしまうからだ。ところでその玉の外側の紙には、どうやら火がついているらしい。そのせいで、中はひどく暑い。玉の内側の竹で編んだかごは、手で触れたら火傷するほどだ。そりゃそうだろう燃えているのだから。
あなたはまさに蒸し焼きになろうとしている。そして坂道を下っている。
どこまでも……。
誰にでも一度や二度は経験のあるそのことが、今、まさにあなたの身に起こっているのだ。
桜田さんの様に博識なコメント出来ませんが失礼致します。
ファクションのようなお話たちに心の中で心からの拍手をしています。
コメントどうもありがとうございます。
そうおっしゃって頂けるとたいへん嬉しいです。
かろうじて週に一作づつくらい追加するつもりですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。